事務所草子

かかる人こそは世におはしましけれと、ジャニーズのことをかきつくるなり。

20150816 戻れるはずもない日が愛おしいよ

下書き削除したらなぜか記事が消えてしまったので再投稿。(8/29)



2、1、4。
これらは2015年にめでたくジャニオタ11周年を迎えた私の担当変遷を表す数字だ。
今、1が2に、4が5に増えようとしている心の内を文字にしておきたいと思う。

私には継続してきたものがいくつかある。
19年書いている日記、15年習ったピアノ。それに次ぐものがジャニオタだ。ちなみに次点は9年通ったスイミングである。バリバリのインドア派であることがおわかりいただけただろうか。真夏の太陽はわりと苦手だ。
中学生の頃に知ったジャニーズはもはや趣味の域を超えて生き甲斐になっている。足を突っ込んだ当初は趣味の1つに過ぎなかったのに、気づけば筋肉や血液と同様、私という人間を構成する重要な要素となっていた。その要素を血肉とすることに必死で、フラグを立てることなくここまで来てしまった。
よっぽど寂しい人生を送ってきたんだね、と哀れみの目を向けてきた男性がいた。思春期にあるべきイベントをこなしてこなかった女は、異質というか、未知のイキモノだったんだろう。余計なお世話だ。ものすごく語弊のありそうな言い方をすれば、ぽっと出の男(カテゴリ:その他)に私の華麗なる男遍歴を哀れまれる筋合いはどこにもない。この思考自体がもう憐憫の対象だろうが、所詮相手はその他カテゴリ。今までのオタク人生を振り返ってみても概ね満足している私にはその言葉は馬耳東風であった。


2、1、4。
冒頭のこの数字を文章に組み込むと以下のようになる。
《担替え2回、担降り1回、担当4人。》
私の中の定義として、「担替え」は字の通り同一グループ内で担当を替えること、「担降り」は今までの担当とは別のグループに所属する人を担当にすることであり、オタクとしてはグループから一歩離れることを意味する。
勝手なイメージだが、◎←二重丸の内側の円が担当が所属するグループ、外側の円の中がグループのオタクで、「担降り」を宣言したら外側の円のさらに外からグループを見るという感じ。
ここのところ葛藤に葛藤を重ねる頭を整理するため、私の定義に沿って「担替え」と「担降り」の歴史をまとめた。
最後にどのような結論が導き出されるかはわからない。しかし、その結論は紛れもない私の本音だ。後々迷った時にもきっといいアドバイスを与えてくれることになるだろう。


一度目の「担替え」は、錦戸くんからすばるくんだった。つまり、私の初めての人は錦戸亮ということになる。誤解を招きそうな表現だがもちろんそういう意味ではない。
2004年からYa-Ya-yah好きの友人に半ば流されるようにしてYa-Ya-yahを見ていた私が、初めて自分の意志で見るようになったのが錦戸くんだ。2005年のことだ。友人に見せてもらっていた雑誌で、私は関ジャニ∞錦戸亮に目を奪われた。『がんばっていきまっしょい』の放送が始まる直前だった。“893”と称されがちだった彼の、はにかむような顔に見事にハートを鷲掴みにされた。その後、続けて『1リットルの涙』に出演することが決まり、多忙を極める錦戸くんを心から応援していた。『好きやねん、大阪』の宣伝で出たHEY!HEY!HEY!で、ドラマ撮影のために収録に遅刻し、長州小力とのパラパラに乗り切れなくて「そんなん知らんもん!」と言った彼の可愛さは後世に語り継いでいきたい。


さて、2015年現在、ジャニオタの情報源といえばもっぱらツイッターである。では2005年のジャニオタの情報源は何だったか。ブログやメールマガジンである。メルマガは知る人ぞ知るピンク背景のあれだ。このメルマガは私のオタク形成に大きな影響を及ぼした魔のアイテムだったのだが、そこで「好きな人=担当」と言うらしいと知り、とりあえず私は“錦戸担”を名乗ることとした。ついでに「本気愛」「同担拒否」「オリキ」「ヤラカシ」の存在も知り、パンドラの箱に手をかけてしまったのである。

それらの情報源を思い返すに、グループ活動の並行やドラマなどでメディアの露出が多かった錦戸くんのファンは一気に増えていた状況だったらしい。
2つのグループに所属していた彼にはそれぞれの立場からのファンがいた。特に関ジャニ側のファンのメルマガ配信者には「錦戸亮関ジャニ∞錦戸亮!」「NëwSの亮ちぁンゎ認めなぃ!」といった、やや過激な姿勢のものも多数見られた。

また、このメルマガ文化はあるトラウマを私に植え付けた。
今でも度々争いのもとになる【新規】の概念だ。
関ジャニ∞のカテゴリをクリックしてめぼしいメルマガを探していたら説明文に書かれた「新規,顔ふぁンぉことゎり(ヮラ」だの「新規&同担拒否」だのを頻繁に見かけたし、メルマガを購読したら一発目の配信が「デビュー後のふぁんトヵ全員新規ヂャン(パーの絵文字)本間ウザィからはゃく消ぇればィィのに(サムズダウン)(サムズダウン)ゥチらゎ関西の時ヵラ応援してるンゃからなめンな(ゎら(割れたハート)」だったこともある。すごく読みにくいけど出来る限り記憶を忠実に再現したから頑張ってイメージしてほしい。
このように、メルマガ界隈において新規は蛇蝎のごとく拒否されていた。どう足掻いたところで、私は新規だったし、もっと言えば松竹座に行ったこともないような、いわばカースト最底辺だったのである。
流されやすい女のコ選手権ブロック予選を顔パスで勝ち上がれるぐらいには他に影響を受けやすい。それが私だ。そんな性格の私はだんだんと錦戸担を名乗ることを控えるようになり、ついには副担としていた別の人を担当のポジションに昇格させた。それがすばるくんだった。
これが1度目の担替え、2005年末のことだ。テレビでは、つくしがTOJの特別賞を受賞していた。


ジャニオタになってからというものの、【新規】の二文字にずっと苦しんできた。
元凶はメルマガを見ていた頃の刷り込みというか、当時の古株による新規への攻撃的な態度がトラウマなのだ。一方で、新規を歓迎し、色々と親身になって教えてくれた姉さんたちもいた。あの姉さんたちが私のジャニオタとしての礎を築いたといっても過言ではない。
しかし、苦しんできた理由はそればかりでもない。
“好きになった時期なんて関係ない。”そう思いながらも、“もっと早くに出会いたかった。”と、己の見る目の無さに失望し、過去を見てきた古株に嫉妬の念を常に抱いているからだ。彼女たちは先見の明があり、私にはなかった。それだけのことなのに、嫉妬する気持ちは抑えきれない。何度も“あの時が出会うべき時だった。”と自分に言い聞かせてきた。ある日、はたと気づいた。
結局、いつ出会っても先に好きになった人がいれば自分は【新規】である。彼らと姉さんたちが作り上げてきたものを壊さないように、そしていつか自分も教えてあげられるように、今を見ていくしかないのだ、と。
それでもなお、私は古株に嫉妬する。


担替えをしてから1年と少しした時、その日は突然やってきた。
担降りXデー。
高校1年生の正月休み。私はお年玉の使い道をファンクラブの資金にすることを決めていた。高校受験の際、「高校生になったらファンクラブに入ってもいい」という約束を取り付けていたのだ。ほぼ一年我慢した自分へのご褒美も兼ねて勝手に入会することもできたが、親の下にいる以上勝手はできないという判断をしたのだった。
結論から言うと、私は関ジャニのファンクラブに入らなかった。交渉が失敗に終わったからだ。
その頃、母にとってジャニーズは不良集団そのものだった。これは多分に当時のギラギラしていたKATーTUNの外見によるものだと思うのだが、興味の無い母からすれば関ジャニもKATーTUNも一緒である。*1娘が勉強もそこそこにアイドル(それも不良)に熱を上げていたことが気に食わなかったらしい。それから、家族行事だった真夜中の初詣よりもカウコンを優先させたことも火種の要因となっていた。
私も私でなかなか往生際が悪いところがあり、何度か交渉を試みたが、その度に玉砕した。
ある日、ついに娘に反抗期が訪れた。
「だって1年生になったら入っていいって言ったじゃない!」
その叫びへの答えは恐らく一生忘れない。
関ジャニがあんたの人生の何を助けてくれるの!何も助けてくれないわよ!」
衝撃が走った。言い返すこともできず、ただ「もういい」とだけ言って、その週末に私は所持していた関ジャニのCDとDVDをすべて売り払った。それらはほんの少しのお金にしかならなかった。好きな気持ちとかけてきた時間を金という目に見える形で現されたようで、しかもそれの少なさに無性に悲しくなった。
こうして私は関ジャニと別れることとなった。引き裂かれるような形の別れを経験したことがなく、あまりのつらさに胸の痛みを堪えながら布団の中でロミジュリごっこをしてみたが、窓を叩く冷たい風の音が応えてくれただけだった。2007年、1月初めのことだった。


かつて二次元にハマっていたことから、このままジャニーズを離れ、再び二次元に戻るのだろうか…とぼんやり考えていた矢先のこと。
我が家にとって大きな転機となるドラマが始まった。
それが『拝啓、父上様』だった。
花より男子リターンズ』ではなく、『拝啓、父上様』。
花男じゃなくて?」
嵐にハマったきっかけを言うと、何度かそう聞き返された。不思議に思われようと、私の転機は『拝啓、父上様』なのだ。なぜならそれに横山くんが出ることになっていたからだ。
いくら色々なものを売り払ったところですばるくんや関ジャニを好きな気持ちまでは手放せなかった。毎週、横山くんを見るためにこっそりとワンセグを覗いていた。エンディングでは嫌でも主演の名前が目に入る。
二宮和也
どこかで見たような名前だ。何回目かの放送後、アイドル誌をめくると、彼は嵐のメンバーだということがわかった。心にぽっかり穴が空いていた私は嵐を調べていた。そして月曜日の深夜に番組をやっていることを知り、多少無理してでも夜更かしをするようになった。 関ジャニの番組は見なくなった。完全にオタク卒業しましたよという雰囲気を装っていた手前、まだ関ジャニの番組を視聴し続けているのがバレたら気まずいような感じがしたのだ。
母は娘が夜中までワンセグの小さな画面を覗いているのを不憫に思ったらしい。3月某日、『宿題くん』が始まる前に「おかあさんの部屋で見たら?」と声をかけてきた。我が家は両親の部屋にしかテレビがない。ぶっきらぼうではあったが、願ってもない申し出だった。
嵐は、ジャニーズ=不良集団という母の概念を覆した。
春休みに私が某Tubeで動画を見ていたら隣に座るようになり、毎週月曜日はZERO→宿題くんが習慣になり、5月初めに「お笑いコーナーにあったんだけど」と『C×D×Gの嵐』をレンタルしてきて、末には『Arashi Around Asia』を買ってきてプレゼントしてくれた。あっという間だった。母へのトドメは『山田太郎ものがたり』だった。あれで完全に母は嵐に落ちた。
いつしか私はすばるくん以上に相葉くんに、関ジャニ以上に嵐に惹かれ始めていた。ふわふわのパーマをかけた相葉くんはストライクだった。今でも、上戸彩ゲスト回*2とか夏休みの宿題やり残しSP回*3は定期的に見たくなる。
ところが、流されやすい選手権ブロック予選顔パスが発動する。
1年生の頃のクラスメイトで、私が山ピー担からすばる担に引きずり込んだ子がいた。彼女は私とほぼ同時期に嵐に興味を持った。二宮担の大宮コンビ好きだった彼女に何となく話を合わせているうちに、私は大野くんばかりを見るようになっていった。
夏休み明け、ジャニウェブの通販で買ったTimeのバッグを自転車のカゴに放り込み、いつものように登校していた時のことだ。信号待ちをしていたら、たまたま一緒になった上記の友人とは別の子が「あれ、嵐?誰!?誰が好きなの!?」と興奮気味に尋ねてきた。その剣幕に押され、「お、大野くん!」と答えた。口をついて出た人がきっと好きな人なんだろう。その結論にたどり着き、程なくして、智担を名乗り始めた。
個展もドラマも歌もダンスも、何もかもを「すごい」と賞賛し、友人と語り合った。
こんな日がいつまでも続くと思っていた。


2回目の担替えは2014年の2月1日だった。
その少し前から、予選顔パスの私は同担拒否になりかけていた。正確には「ある一部の人たちと同じに思われたくない」気持ちが強かった。逃げ出したい気持ちに駆られていた。
それに拍車をかけていたのが、前年(2013年)始まった『相葉マナブ』でのほんわか具合だったり、夏に櫻井くんが司会を務めた音楽番組で『WAになっておどろう』を身に染み付いたナチュラルな動きで踊る相葉くんに激しく揺さぶられたり、一番はナチュラルなサラストヘアの相葉くんのビジュアルがたまらなく好みだった。
そんな時、ラジオで相葉くんが心理テストに答えていた。100本のバラをもらったら、その内の何本をドライフラワーにするかという問いかけに相葉くんは「1本」と答え、その理由をこのように述べた。
「花って枯れるからいいんじゃないのって思っちゃうから0本でもいいんだけど」
ふわふわしていそうに見えて超絶シビアな考え方をしている相葉くん。それを初めて知った私は恋の仕方を知らない少女のようにドギマギした。やがて私の目は大野くんよりも相葉くんを追いかけていくようになった。

ぷかりとひとつの問題が浮上する。
仮にコンサートに当たった時、誰のうちわを持つのか。
頭を抱えてしまった。これはかなり大問題だった。
私は【永遠の新規】に括られる位置にいる。初コンサートはドリアラだった。それ以降の打率はそこそこ低空飛行だ。
ドームという広い会場で私が誰のうちわを持っていようと認知されること無きファンの1人であり、翌年違うメンバーのうちわを持っていても99.9%その変化には気づかないだろう。だから、何のためらいもなく、大野くんのうちわから相葉くんのうちわに持ち替えればいい話なのだ。
それができなかったのは、それをすることに強い抵抗があったからだ。担当を裏切るような罪悪感に苛まれた。長年連れ添った何の非もない夫(担当)にいきなり離婚届を突きつける極悪妻(私)という昼ドラでもやらなそうなベタベタな展開を想像し、狂いそうになった。繰り返すが、私は認知されること無きファンの1人である。
自分の気持ちに踏ん切りをつけられないだけの臆病者。そう自嘲してみたら、予想外にダメージを食らって結構驚き、かなり落ち込んだ。セルフアタックは程々にしておくが吉だと学んだ。
大野くんは不動だと思っていたのにあっさりと相葉くんに移ってしまった気持ちに、足元からガラガラと崩れていくような感覚がしておののいた。
ツイッターでできたつながりは智担が多く、「担替えしました」と宣言するのはどうにも気まずかった。私は明確に宣言することは避けた。
そうは言っても、つぶやきは感情と直結しているから素直だし、アイコンはするっと相葉くんに変更した。日ごとに相葉くんへの愛を叫ぶ率が高くなっていった私に、何も言わなかったけど気づいていた人もいただろうと思う。

私の恐れていた日がやってくることは無かった。
ご存知、昨年のコンサートのうちわはファンライトだったからだ。
嵐という箱を推す。そこに落ち着いていいんだよ、と言われた気がした。
ディスコスターを存分に楽しんだ後、晴れて相葉担となった私に嬉しい報せが舞い込んだ。相葉くんの単独初主演映画である『MIRACLE-デビクロくんの恋と魔法-』の試写会に当選したのだ。
当日、彼が真横を通ったことは覚えているが、そこからしばらくの記憶がない。呼吸困難になるかもと思ったり、興奮でギーゼルバッハ部位が破裂するかと思ったりで心臓にはすごく負担をかけてしまった。申し訳なく思う。
それからひと月後、友人のおかげで再び生で相葉くんを拝見することができた。
映画関連で買った雑誌の総額は1万を優に超えた。お祝いの気持ちはもちろんあったし、とにかくビジュアルが好みだったから片っ端から買った。ananなぞ、家宝レベルで大切にする!!とまで思っていた。これは今でも思っているが。


2015年2月19日がやってきた。今となってみれば、あの日が無ければきっとこうやって葛藤することはなかったと思う。けれども、あの日があったから私は新しい夢を見つけたのだ。
VS嵐ジャニーズWESTがゲストとして来た2月19日。元々が関ジャニ好きだったから、中間濵田桐山神山(敬称略)の4人は知っていた。あとの3人は正直存じ上げなかったが、「何だかいいなあ」と漠然と思った。
その後、過去のラジオを漁るようになった。顔と声があまり一致していない状態で声を聞き分けるのは至難の業だった。だから純粋にラジオ番組として楽しんでいた。夜な夜なテンポのいい会話に笑い転げた。
やがて相葉くんのドラマに流星くんが出ることが決まった。その頃に彼らの1stツアーがあるのを知る。DDをこじらせかけていた私は友人に「行くべきだと思う?」と聞いた。彼女は「気になるなら行くべき」と言った。背中を押されたことに何だか強くなった気がした。エイターの友人を誘い、チケットを確保した。
デビュー1周年の日の『リトルトーキョーライブ』は録画予約入れてたのに容量不足で3分しか録画できてなくて、すっごくガッカリした。TLをさかのぼってみても感想ツイートは無かった。そもそも掛け持ちすら少ない私のTLでは当然とも言える。だけど、その時の私は確かに「何で?」という気持ちを抱いた。今までろくにチェックしてこなかったはずの番組の感想を、私は求めるようになっていた。
また、1万字インタビューの存在を知り、それのまとめで自分でも引くほど泣いた。ニワカにも程がある女がこんなに泣いていいんだろうかと思いながら泣いた。
そして、ゴールデンウィークの横アリではちょっとした事件が起きていた。個人的ジャニーズ衝撃事件トップ10(2015)にノミネートしたいレベルの事件だ。
流星くんが「相葉くんは天使」「相葉担」発言をしたのだ。
私は同担が好きだ。なぜなら、萌を、燃えたぎる思いを共有したいし、同担がどのような眼差しで自担を見ているか知りたいからだ。
相葉担宣言をした流星くんは私の中で加速度的に好感度があがっていった。

そのような感じでコンサート当日を迎えた。
20150506 ジャニーズWEST 1st Tour パリピポ感想 - 嵐草紙
この時点では「のんびり見守っていく」つもりだった。あくまでもメインディッシュは嵐で、時たまスパイスにしたいおつまみ感覚の若い男の子たち。過去を知らないのはちょっと残念だけどまあいいよね。そんなぐらいの軽い気持ちだった。
はずなのに。シンガポールで撮影した写真集の存在を知り、一気に親近感が湧いたのが境目だったんだろう。本当に人間はささいなことがきっかけになるものだ。
ちなみにパリピポの4日後にKATーTUNのコンサートに行ったのだが、ミーハーな気持ちで顔が好みな田口くんのうちわを持ってみた。テンションあがって、笑って、田口くんの涙に普通に感動して大満足して帰ってきた。番組は以前よりチェックするようになった。KATーTUNかわいいなあと思う。それでも、過去を知る姉さんたちへ嫉妬する気持ちは起きなかった。

そうこうしている内に、『なにわともあれほんまにありがとう』の発売が迫ってきていた。予約はしなくてもまあ初回は買えるわよねー、と呑気に構えていた。懐具合によっては発表から時間が経ってから買うつもりだった。発表時点で予約をしないと初回が手に入らないのがデフォルトな嵐に対し、ジャニーズWESTはまだまだそこまでは大丈夫だろうと正直思っていた。あの時の自分を張り飛ばし、頭を丸めさせて2人で謝りたい。2人とも私だから摩訶不思議の扉開きそう。
購入の決定打になったのは声だった。
ある夜、寝支度をすっかり整え、消灯して後は横になるだけといった状態の私の耳に「ジャーニーズエンターテイメンッ」と可愛らしい声が飛び込んできた。画面に目を向けると、赤い衣装を着た男の子の「行、く、ぞ!オイ!」の掛け声から始まるCMが流れた。新喜劇やコンサートの様子が詰め込まれたそれのBGMは最近やっと耳に馴染むようになった曲。
たった15秒。だけどその15秒、私は画面から目を離せなかった。まばたきさえ許されないかのように食い入るように見つめていた。
見つけた。そう思った。
翌朝、開店と同時にCDショップに予約を入れた。
そして私はジャニーズWESTにあっという間に引き込まれた。彼らの過去を見て愛してきた姉さんたちに心の底から嫉妬した。
おつまみにする予定だったものを買い占めて食べまくってメインディッシュがなかなか喉を通っていきにくい日が始まった。

本当は、ここ数年の間に幾度も担降りを考えてきた。そのタイミングを窺って、でも踏み切れなくて、その度に溜まっていくモヤモヤがヘドロの塊みたいになって喉につっかえてた。
コンサートは当たらない、予約は争奪戦、超ド級のおバカ行動をするオタクが頻繁に話題になる、手抜きっぽい作りの冠番組(これはリニュで溜飲が下がった)。何よりも消化不良を起こしていたのが、背負うものの大きさ。公的なものを背負うことは本当に素晴らしく、彼らが認められていることの証でもあるけど、その多さ大きさに一介のファンであるはずの私が疲れてしまった。嵐のように背負ってるものはないはずなのにお前が疲れるのはおかしい。その通りだ。私が疲れるのはおかしい。だけど、疲れた。
それともうひとつ大きかったのは、私が彼らと同じ夢を見られなくなってしまったこと。
THE DIGITALIANを見た直後は胸を張って「私の夢はあなた達」と言えたけど、今はたぶん言い澱んでしまう。
悲しいことに、彼らの夢は、向かわんとするその先は、夢から覚めようとしている今の私には見えず、きっともう届かない。
彼らは変わらずそこに在り続けてくれる。変わったのは私。
風をいつまでも送り続けたいのは山々だけど、気分はパトラッシュに語りかけるネロそのもの。

私は、自分が嵐を好きでいることや年々積み重なるファン歴の長さに酔っていた。降りればよかったのにと思われるだろうし自分でも思ったけど、どれだけ担降りしたいと思っても、降り先がなくて空中に放り出されたようになるのが怖くて、それにしがみつこうとしてきた。臆病者はジャニオタから卒業するなんて出来なかった。ジャニーズと共に在るのが呼吸をするのと同じようになってしまった今、オタクをやめたら息が止まってしまう。
だけど終わりにする。終わらせることができる。
私は、新しい夢を見つけることができた。待ち続けてた新しい夢。
彼らや彼らに関わるものをずっと好きでいたいから。
適度な距離感を持つことできっといつまでも好きでいられるから。
だから、嵐を降りる。
8年という長い間、素敵な夢を見させてくれてありがとう。
あなた達が進む先に希望が満ちていますように。


あの夜にテレビのスピーカーから聞こえてきた重岡くんの声は神様のお告げとか何かそういう神がかり的なものがあった。
友人に「なにとも買ったのはあの重岡くんがきっかけだった」と言ったら「えっ、じゃあ重岡くん?でも落ちてないよね?」と返ってきた。その混乱はごもっとも。
彼は、担当じゃない。
彼だけじゃない。
現時点でジャニーズWESTに担当はいない。まるっと誰でも大好き誰でも可愛い状態。
長々と書いてきた中でおわかりかと思うが、私の場合、きっかけになる人と担当が違う。それゆえに慎重になっているらしい。
お見合い結婚をするヒロインのような、「私たち、もっと知ってからでも遅くないと思うの」という気持ち。
これからたくさん知っていく中で、この人!という1人を決めたい。
惜しみない愛を注ぎ、その彼と彼の運命共同体とともに夢を見たい。
私はジャニーズWESTのことをもっと知りたい。
過去も、現在も、未来も。

*1:今では「ギラギラしてたあの時は若かったのね~」などと言っている。

*2:逆回転で「ひらがな弱いんだよ」と言い放った相葉くんが本当に好き。

*3:目隠しA・RA・SHIをやった回。